わりと謝罪文や釈明文をそのままに捉えた上で解釈するのが好きなので、ちくま学芸文庫の帯の件はもし逆の解釈を狙ってたなら時代錯誤感は否めない。いまは良くも悪くもそういう行間を読むようなものより一から百まで直接的な言葉で説明したものでないとユーザーは理解できない時代だと気付かなければ。
— 大島薫 (@Oshima_Kaoru) 2018年1月6日
RT 行間を読ませる文章が好きで、自分も普段の生活からそう心がけているので、「なるほど」と思った。うすうすは思ってたけど、時代って言われてあああって。
しかし、好みは行間だからションボリだなぁ。想像力を掻き立てたり、何かこう、思慮することを促すようなのが好きなんだよなぁ。
時代錯誤かぁ……
父母にも、昔、明治か大正時代の人みたいと冗談で言われたことがあったけど。何せ、小さい頃から読んでいる本たちが、昭和以前のものばかり。主に明治期、もっと遡ると古文。万葉集あたりは大らかで素直と思うけど、率直にすぎる感じは受けない。今はここで「個人的に」と言わねばね
かんがえさせられる。余白がある。
創作者が語らずとも、受け手が良心でもって創作者の真摯を解釈する。
そういうのが好きなんだけれど……。まぁ、曲げる必要もないだろうけど、時と場合を見たほうがいいのかもしれないね。
大島薫さんのツイートが流れてきて、時代錯誤という言葉にハッとしました。
ここで、一言「嘆息。」と書いたらそれも、含みをヘンに受け取られてしまうのかな?
難しい。
ところで、その話にひかれている帯について、いま調べたところ、
これは誤解を受けるかもなぁという……、スレスレラインでした。